韓国からの知人を大阪に案内した時に、大阪城内の豊臣秀吉の年譜にあった朝鮮征伐に目が留まったらしい。延世大学の優秀な学生の目には「豊臣秀吉に対して朝鮮は征伐されるようなどのような悪いことをしたのですか?」という問いかけ以上のものがあふれていた。そう彼女は知っているのだ。歴史を。理学部の俊英はその後卒業し、大学院合格を果たすも一流企業に就職、訳あって医学部に入り直すために退社し、ただちに医学生となることができた。
韓国併合という「巧みな」日本語に隠された、植民地化であったという真実、戦争継続のために人員不足がおきると皇民化政策によって日本人化させ、創氏改名を強いても、それは韓国側の要請だったとか、韓国の近代化に貢献したとか、なんとかと未だに言い繕う人が絶えないどころか、欧米列強から守るために韓国併合は歴史的必然性があったとかの主張さえ堂々となされている。
言論の自由が保障されている、のは間違いない。
「嫌韓流」なる漫画をご存じだろうか。かなり売れているらしいことが自己喧伝されている。内容も上記の視点から書かれた図書のみを参考図書に利用しているため、同内容に貫かれている。
そのような側から見れば、かつての村山談話や河野談話は相当面白くないことであろう。安倍元首相は自らの考えは封印し、先輩方の談話を踏襲することを内閣総理大臣として表明している。
そこで本題の菅首相の談話である。韓国併合条約発効100年のタイミングに、自身の参院選敗北、民主党代表選への不安材料の増加なども相まって、どのようなことを盛り込むか、まさに政治的ターニングポイントともなろうか、ということだと思う。
その骨子は朝日新聞(2010年8月10日夕刊)によれば以下の通りである。
・韓国の人々は、植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられた。
・植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、改めて痛切な反省と心からのお詫びの
気持ちを表明する。
・在サハリン韓国人支援、朝鮮半島出身者の遺骨返還支援など人道的な協力を今後とも誠実に実施する。
・日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌などの図書を近く韓国側に渡す。
・両国は、二国間関係にとどまらず、東アジア共同体の構築を念頭に置いた地域と世界の平和と繁栄のために協力してリーダーシップを発揮する。
・両国のきずながより深く、かたいものになることを強く希求し、不断の努力を惜しまない。
これに対するTVやラジオから流れてきた市民の反応は案外と否定的で、いつまで日本は謝り続けなければならないのかに尽きていた。もっともそうした声だけをTVやラジオは流している、つまり自らの主張を都合よく市民の声で代弁させているだけだとも言える。
そもそも敗戦後、日本はきちんとした戦後処理を自らの手で行ってこなかった。東京裁判の非だけをあげつらうだけで、はっきりとした戦争責任を追及することはなかった。
ベトナム戦後賠償交渉は1959年5月に両国で調印された。これが日本の最後の戦後賠償協定となった。内容は、戦争被害が大きかった北ベトナムとは共産政権を理由に交渉せず、フランス、アメリカの傀儡政権であった南ベトナムとだけ賠償を決めたものであった。「日本ベトナム間賠償借款協定」という。
もともと南ベトナム側の戦争被害は目立たず、日本軍の進駐により多数の餓死者が出たにもかかわらず北ベトナムを除外するという個の戦後賠償協定とは何を意味しているのか。
当時の国会で社会党が「ニワトリ3羽に200億円払うのか」と迫ったのはなぜか。
こうした交渉をきっかけにして日本はベトナムとの経済的な関係を構築しようと図った。一方、アメリカは反共の砦としての南ベトナムを日本が支えることは願ってもないことであった。
こうしたことは冷戦期の外交文書公開によって明らかなとなった。というか、裏付けられたわけである。おおよそのところは推定の範囲内にあったからである。
2007年8月30日付朝日新聞の記事には、古田元夫教授(東大)の話として次のように出ている。
賠償が膨らんだ背景に、冷戦の中で南ベトナムを確保しようとしたアメリカの戦略があったことを示唆する資料だ。ベトナムへの戦争被害を清算するより日本の経済進出の足がかりを得る交渉だったと言える。
古田教授の指摘通りとなっているようである。
サンフランシスコ講和条約署名後約8年間で総額約140億円で妥結した。そのうち9割は日本工営が調査設計を受注していた水力発電所の建設に充てる「ひも付き」賠償だった。日本企業が外国政府と結んだ事業に、日本政府が資金を出すこの方法は、政府の途上国援助(ODA)の原型となった。
戦争責任を考える時、こうした戦後賠償協定のやり方は本当に反省し、戦争責任を取ったとはたして言えるのであろうか。
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