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大会実行委員長 渡辺雅之
東京学芸大学 教授
いろはにほへと塾 塾頭













その7 ク・チの地下トンネル (2010.04.02)

 初めてのベトナム訪問先はダラットでした。ホーチミン市の北300kmの地で、高原のリゾート地でした。林芙美子が小説「浮雲」の題材としたところです。そして、ホーチミン市に戻ってからの最後の一日を「ク・チ」行きにあてました。

 その後もここを訪れまして、これまでに3回ほど足を運びました。

 ク・チはベトナム戦争中の激戦地の一つでして、この地の下には総距離250kmにも達する地下道が掘られているということで有名なんだそうで、どんなものか見てみたいという思いが強くありました。

 観光客用に地下道を体験させてくれるというので入ってみることにしました。地面に開いた穴から入ります。この穴が意外と小さい。中へ入りますと、真っ暗です。観光客用の照明でもあるのかと思いきや何もありません。横に伸びた地下道をひよこ歩きで前の人を頼りに前へ進みます。閉所恐怖症の人は多分辛いかと思います。歩く姿勢が苦しいのと酸素が少ないのでは、の不安から早く脱出したくなります。そのうち前の方が明るくなり、出口となります。

 ベトナム兵は体が細く、このような穴や地下道をすばやく移動できたのです。一方、アメリカ兵は図体がでかいので、そもそもこうした地下道へつながる穴にまず入ることができません。なるほど。これでは神出鬼没のベトナム兵にやられるわけです。

 地上には爆弾の雨あられ。ゆえに地下に潜って戦う方法を取り、時折ゲリラ戦を仕掛けるわけです。ガイドさんが教えてくれた様々な工夫には、その都度なるほどと思うことばかりです。例えば、空気孔。ある種の植物の根っこに空気孔がありました。教えられなければ全く気がつかないものです。地下道内には、移動のための通路のほか、会議室、病院、食堂、調理場など生活するためのものや戦うためのものがすべてありますが、調理場などは排気が植物の中に拡散するよう導管が作られていたり、熱が再利用されたりと、自然と一体化した匠の技がありました。  

 地上に落とされた爆弾が不発弾なら、夜のうちにそれは地下道内に運び込まれ、解体されます。鉄は溶かして再利用し、火薬は新たな爆弾に利用され、とアメリカ軍の武器はたちどころにベトナム軍の武器に変わります。たくましい。

 地上に仕組まれた様々な罠は、アメリカ軍の士気を低下させ、戦闘力を徐々にそいで行く効果がありました。石器時代に戻してやる、と息巻いたアメリカ兵は、自らが敗れることは想定外なのでした。  

 ク・チは農作物がよくできる土地でした。戦闘がない時にはベトナム兵はベトナム農民となり、農作物をよくこさえました。ですから、戦争中でも食べ物には困らなかったようです。そのうち地上は枯れ葉剤による薬害で農作物はできませんが、ベトナム兵はともかく明るく、国を守る姿勢は崩れなかったようです。

 そうか、戦場なんだ、戦場だったんだ。今、地上はゴムの木が並んでいました。1975年にベトナム戦争が終結し、ベトナムが勝利した後でも農作物はできないのでした。ゴムの木が並んだ風景は、ゴムの木一本一本が何かを語りかけてくるようでした。平和なベトナムにあっても、ゴムの木はその存在に意味があるのです。

 2004年10月中旬、アメリカ軍ヘリコプターが宜野湾市の沖縄国際大キャンパス内に墜落しました。幸いにも被害は大きくはならなかったのでした。当時の外務大臣町村氏は、被害が重大なものにはならなかったのは操縦技術も上手だったのかもしれない、とコメントしたのでした。後ほどその真意を問われますと、「少しずれていたら道路に落ちていたかもしれない。素人考えで言ったまでで、そういう印象をあの瞬間に持った。」そうです。

 アメリカの基地がある沖縄での、アメリカ軍の起こした事故に対し、日本の外務大臣は外務には「素人」だったことを告白したのでした。しかもアメリカ兵を褒め称えてまでして。

 沖縄は今も戦場なのです。戦中は捨て石に、戦後現在までアメリカ軍の揺り籠として。


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