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大会実行委員長 渡辺雅之
東京学芸大学 教授
いろはにほへと塾 塾頭













その13 開高健の「編集者マグナ・カルタ9条」 ( 2010.05.14 )

 マグナ・カルタとは何か。遠い過去に記憶を馳せると、イギリス(このような国はないと、C.W.ニコルは言う。)で出来た何かの法律だったように思う。

 ネットで検索してみよう。マグナ・カルタは、ラニーミードにおいて1215年6月15日に制定され、63か条から成る。すべての条文はその後廃止されたが前文は廃止されずに現行法として残っており、成文憲法を持たないイギリスにおいて憲法の一部である。

特に重要な項目は、教会は国王から自由であると述べた第1条、王の決定だけでは戦争協力金などの名目で税金を集めることができないと定めた第12条、ロンドンほかの自由市は交易の自由を持ち、関税を自ら決められるとした第13条、国王が議会を召集しなければならない場合を定めた第14条、自由なイングランドの民は国法か裁判によらなければ自由や生命、財産をおかされないとした第38条などである。なお、唯一廃止されずに残っている前文は抄訳すると、国王・ジョンは忠誠な臣下の忠言によって、以下の条文を承諾する、という内容である。

ジョン王がフランスとの戦いに敗れてフランス内の領地を失ったにもかかわらず新たに戦を仕掛けて再び敗戦したために、1215年5月5日に貴族の怒りが爆発した。貴族側はジョン王の廃位を求めて結託し、ロンドン市が同調する事態になるとほとんどの貴族と国民は反ジョンでまとまってしまった。当時はこのように臣民の信頼を失った王は自ら退位するか処刑されるしかなく、その後新たな王が立てられるのが通常であった。

しかし、このときはジョン王の権限を制限する文書に国王が承諾を与えることで事態の収拾がはかられた。王といえど、コモン・ローの下にあり、古来からの慣習を尊重する義務があり、権限を制限されることが文書で確認されたという意味が大きい。王の実体的権力を契約、法で縛り、権力の行使には適正な手続を要するといった点は現代に続く「法の支配」、保守主義、自由主義の原型となった。

制定直後、実施にあたり混乱があり、更にジョン王を支持するローマ教皇インノケンティウス3世がイングランドの貴族や国民の動きを非難してイングランド国王は神と教会以外の約束に縛られるものではないとマグナ・カルタの廃棄を命じた。さらに翌年ジョン王が死ぬと次の国王・ヘンリー3世がこの憲章を守らなかったため、たびたび再確認された。またその際に、条文のいくつかは修正された。現在有効とされているものは1225年に修正されたものである。その後、廃止されないまま忘れられており、中世にはほとんど重視されなくなった。シェイクスピアの史劇『ジョン王』にはマグナ・カルタ制定のエピソードが登場しないことにも、この軽視が伺われる。

さて、表題の開高 健の「編集者マグナ・カルタ9章」とは以下のとおりである。

1 読め。

2 耳を立てろ。

3 眼をひらいたままで眠れ。

4 右足で一歩一歩歩きつつ、左足で跳べ。

5 トラブルを歓迎しろ。

6 遊べ。

7 飲め。

8 抱け、抱かれろ。

9 森羅万象に多情多恨たれ。

開高 健「サイゴンの十字架」から溢れ出る「筆力」の源泉は何か?その一端がここに現われていよう。さて、あなたの「マグナ・カルタ9章」は何だろうか。

私の「マグナ・カルタ9章」は、1 まず動け! 2 そして走れ! 3 とにかく人と会え。 4 思い込まず、迷え。 5 心から自分を拓け。 6 徹底して相手を信じろ。 7 甘えとしての相手を信じるな。 8 かまわず飲め! 9 他人のせいにするな。

「編集者マグナ・カルタ9章」に関しては、作家 森 詠 さんが「一語一会」(朝日新聞2003年1月22日夕刊)で紹介されたものであることを付記する。


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