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大会実行委員長 渡辺雅之
東京学芸大学 教授
いろはにほへと塾 塾頭













その14 ホーおじさん ( 2010.05.21)

 映画「JSA」の中に印象が残るシーンの一つとして「北」の兵士二人と「南」の兵士一人の記念写真を撮る際、カメラを持ったもう一人の「南」の兵士がそのアングルに困ってなかなかシャッターが押せない所があります。「南」の兵士はどうやってもその背後に「北」の金親子の顔写真が入ってしまうからでした。

 板門店で対峙する二つの「国」の兵士たちがひょんなことから仲良しとなってしまいます。もとをただせば同じ民族同士、第二次世界大戦後の米ソ冷戦の最前線とされた地での不幸な衝突の結果、分断が余儀なくされた休戦地での出来事がベースとなっています。

 「南」の兵士イ スヒョクが地雷針を引っ掛け立ち往生しているところ、偶然「北」の兵士オ ギョンピルとチョン ウジンが通りかかり、ギョンピルが信管を外してやったことがきっかけとなって両「国」の交流が始まります。「北」の歩哨所に単独でやってきた「南」のイ スヒョクは、3人で酒を酌み交わし、親交を深めてゆきます。やがて、スヒョクの弟分のナム ソンシクも加わり、4人の友情が育まれます。

 冒頭のシーンは、スヒョクを真ん中にギョンピルとウジンの3人をソンシクが撮るものです。そして悲劇が起こります。「北」の歩哨所に上司が不意にやってきてしまったのでした。その後の顛末は省きますが、この事件の調査役がスイスから来たソフィー中佐(イ ヨンエ扮する)でその美しさは目を瞠るものがありました。「宮廷女官チャングムの誓い」(原題は「大長今」)で再会でき、うれしく思った次第でした。

 さて、本題。「JSA」で教えられるまでもなく、「北」では、公的施設には必ず金親子の写真が掲揚されています。直接見たことはありませんが。そして、各家々にも同じように飾られているようです。

 かつての日本でも実はそうでしたが、今では全く見かけなくなったように思います。

そこで、ベトナムです。「ホーおじさん」ことホー・チ・ミンさんの写真や絵、等の類はベトナムの至る所に見ることができます。お札の絵柄はホー・チ・ミンさんのみです。「建国の父」とはいえ、このようにいたるところにホー・チ・ミンさんだらけのベトナムにおいてなぜそうなのか不思議でした。

 ベトナム戦争終結は1975年、ホー・チ・ミンさんは1969年に亡くなっています。歴史に疎い私はてっきり1975年を迎えられたと思っていました。意外でしたね。

 ホー・チ・ミンさんは、「胡志明」と書きます。意味するところは、「志が明らかな外国人」だそうです。えっ?実はこの名は、1942年連合国の支援を求めるために中国へ向かった際に作った仮名だそうです。知りませんでしたねぇ。

 本名はグエン・シン・クンといいます。パリに住んでいた頃はグエン・アイ・クオク、阮愛国、愛国者グエンと名乗るなど、時代によって多くの名前を使い分けたようです。へえー、そんなんだ。

 生粋の共産主義者ながら民族主義者でもあったホー・チ・ミンさんは、存命中の憲法で「共産党=指導勢力」の規定を設けませんでした。「敵を作らない」ことを基本原則としながら「独立と自由」を優先させた思想です。また、反対派の大粛清という、歴史における社会主義指導者のほとんどが行ってきてしまった愚行を犯しませんでした。また、権力にも固執しなかった点も聡明さを感じます。

 ホー・チ・ミンさんの「貧しさを分かち合う社会主義」は、1980年代後半からのドイモイ(刷新)政策によって過去のものとなりました。貧しさを嫌うのはどこの国の民衆も同じなのでしょう。が、ホー・チ・ミンさんへの批判は少ないものでした。

 ハノイにあるホー・チ・ミンさんのお家も見てきましたが、驚くほど小さく、簡素なものでした。古ぼけたカーキ色の服とゴムサンダルに象徴される質素そのものな生活をされていました。遺書には「盛大な葬儀をして人民の時間と金を浪費しないように」と注意を忘れない方です。

なるほど、なるほど、「ホーおじさん」として長く親しまれているわけですね。よーくわかりました。

(資料の出典は、渡辺修司さん「ホー・チ・ミン 敵を作らない民族主義者」朝日新聞2009年12月5日夕刊)


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