毎月送られてくるVISAカードの定期刊行物、「VISA」5月号(2010年)の巻頭は沢木耕太郎「琴線に触れる」だった。感じる写真館61回目。
どこか遠くを見ている。
たとえそれが老人であれ子供であれ、ここではないどこか遠くに視線を投げかけている人の姿を見ると、胸が締めつけられるような思いをするときがある。
ヴェトナムはホーチミンのフェリーで、乗客にガムを売っていた少年が、不意に商売道具をかたわらに置き、どこか遠くを眺めはじめたことがあった。
何を見ているのだろう。彼に何があったのだろう。
もちろん、なにひとつわからなかったが、フェリーの二階から対岸の景色を眺めていた私は、その少年の姿から目が離せなくなってしまった。彼の寂しげな姿には、やはりどこか遠くを眺めていたことがあったはずの幼い私の、遠い昔の寂しい姿を呼び起こす何かがあったのだ。
それはまさに、琴線に触れた、ということだったのかもしれない。
沢木耕太郎の視線はいつも鋭い、と感じる著作に触れてきた。沢木はスポーツにも関心が深いから、私もことさら沢木を読んできた。
このシリーズの3回目 マイケル・チミノ監督「ディア・ハンター」で紹介した本のなかで沢木がひどく批判されていた。84頁の脚注22だ。1936年のベルリンオリンピックのこと、陸上競技4種目(100m、200m、走り幅跳び、400mリレー)の金メダリスト、ジェシー・オーエンスに言及してのヒトラーの「表彰式ボイコット」事件を敷衍して、沢木が「オリンピアーナチスの森で」の中でヒトラーを擁護する描写を行っている、というのだ。
この「表彰式ボイコット」事件とは、100mの決勝で優勝が期待されていたドイツ選手が負けたのでヒトラーは表彰式をボイコットして帰ってしまったというものである。
沢木耕太郎「オリンピア ナチスの森で」を見てみよう。第八章 氷の宮殿に件の個所がある。以下に再録しよう。
ヒトラーの人種差別主義を批判するために使われることの多い、オーウェンスが百メートルに優勝すると黒人と握手するのを嫌い貴賓席に招かなかったという挿話は、さまざまな研究者やライターの手でその誤りが明らかになりつつある。
事実は次のようだったと思われる。
競技開始初日に、ドイツのハンス・ヴェルケとティリー・フライシャーが、男子の砲丸投げと女子の槍投げに優勝すると、それを観戦していたヒトラーは大いに喜び、優勝者を貴賓席に招いて祝福した。だが、午後遅くなり、最後の決勝種目である走り高跳びにアメリカの黒人選手であるジョンソンが優勝すると、ヒトラーは表彰式を待たずに退席した。
これには、途中から降り出した雨がひどくならない前に帰ったのだというという証言もあり、ジョンソンを貴賓席に招いて握手などしたくなかったからだという見解もある。いずれにしても、ヒトラーがジョンソンと握手しなかったことだけは確かである。
しかし、二日目に百メートルで優勝したオーウェンスを、黒人という理由で貴賓席に招かなかったというのは正しくない。実は、前日のヒトラーの振る舞いを見た国際オリンピック委員会会長のラトゥールが、優勝者を祝福するならするですべての優勝者に公平にしてほしい、とクギを刺していたのだ。それに対してヒトラーは、公平に「誰も招かない」ことにした。つまり、二日目以降は、オーウェンスばかりでなく、誰もヒトラーの席には招かれなかったのだ。
以上である。これをヒトラー擁護ととるのか、ノンフィクション作家沢木耕太郎の真骨頂と見るのか。私は当然後者である。次のような島田雅彦の文芸時評(2005年7月26日朝日新聞)からもわかろうというものである。
沢木耕太郎は「百の谷、雪の嶺」(新潮)で、登山家山野井泰史とその妻妙子によるギャチュンカン北壁登攀の一部始終を、用具や技術の進歩に支えられてきたヒマラヤ登攀小史や山野井の経歴などを挟みながら、実況中継している。あえて平易な言葉を選び、親切にも山に登ったことのない読者にヴァーチャルな登山体験をさせようとしている。執拗な細部報告は沢木の得意とするところだが、極限下の登山者の姿をここまでわかりやすく書くと、スポーツにやたら感動を求めるメスメディアのスタンスと大差ないと思えてしまう。
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