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大会実行委員長 渡辺雅之
東京学芸大学 教授
いろはにほへと塾 塾頭













その16 池澤夏樹「カデナ」は1968年ベトナム反戦運動下での沖縄におけるスパイ小説? 前編 ( 2010.06.04)

池澤夏樹の「カデナ」(新潮社、2009年10月刊)を買った。この本を知ったのは昨年(2009年11月24日朝日新聞)の斉藤美奈子さんの文芸時評から。今月のテーマは「アマチュアの生き方」、サブが「世間的役割意識への抵抗」だ。以下は、その時評である。

 さて、話変わって、今月一番の話題作は池澤夏樹「カデナ」だろう。時はベトナム反戦運動華やかなりし1968年。しかも舞台は目下基地の移転問題で揺れる、そして68年当時には米国の統治下にあった沖縄のあの嘉手納。ってことはめちゃめちゃ政治的な小説?

 いーえ。これは「あまりのおもしろさに徹夜で読んじゃったよ」という類の本である。おもしろいに決まっているのだ。スパイ小説なんだから。

 年齢も立場も異なる3人の人物がナレーションを務める。アメリカ人の父とフィリピン人の母を持ち、嘉手納基地で米空軍の秘書官を務める女性曹長のフリーダ=ジェイン。両親も兄も先の戦争で亡くし、入植先のサイパンから故郷の沖縄に戻って模型店を開く嘉手苅朝栄。そして基地周辺で活動するロックバンドのドラマー、タカ。

 ベトナム人の「安南さん」に協力する形で、彼ら3人はスパイの役割を引き受けるのだ。

 「あたし・・・・なのよ」「・・・・だったわ」式の女言葉を操るフリーダの語りは(恋人といちゃつくあたりの行動も)、B級アメリカ映画の日本語吹き替え版みたいでゾッとしないが、彼女が本来話しているのが英語であることを勘案すれば、それも作戦のうちなのだろう。

 嘉手納から北ベトナムへ向けて飛び立つ大型爆撃機B−52。あくまでも素人である3人がそれぞれの戦争体験と論理に基づいてスパイ行為に踏み出す過程は爽快とすらいっていい。

 スケールはちがうが、ここで称揚されているのも一種のアマチュアリズムである。人を鋳型にはめたがる勢力には臆せずいってやるべきだろう。プロがそんなに偉いのかい、と。

 以上で斉藤さんの時評は終わる。さて、私はというと、徹夜で読めた本じゃないけれど、1週間近く楽しめた。「カデナ」とは何だったのか。

 フリーダ=ジェインのママはアメリカ人のパパを恨んでいる。パパは正妻と別れることなく、ローカルワイフとしてのママを置き去りにして帰国した。娘の認知はしたもののアメリカに引き取って育てることはしなかった。

 フリーダ=ジェインは高校時代1年間アメリカで暮らした。パパの援助によるものだ。だが、パパは彼女を家に入れることはなかった。正妻の死後、パパはママを呼び寄せなかった。若い別の人と再婚した。

 だから、ママはフリーダ=ジェインへの手紙の中に危険なメッセージを送りこんでくる。

 聖プリシラ奉仕会の任務についてはよく考えてください。

 自分の力に余ることには手を出さないように。

 しかし、神のためにできることだと判断したら力を尽くすのがあなたの義務です。

 あの1852年のベールゼブブの災厄はやはり詳しい調査と報告に値します。早く災厄を止めるために人々が何をしたか、災厄はどこを襲ったか、どういう手段を悪魔は用いたか、それはいつのことで、どれほどの規模だったか。ヴェラクルス教会史の完成のためにあなたにできることは少なくありません。

 それはもちろん危険なことです。悪魔と関わるのはすべて危険。その中でもこれが格別に危険な任務だということはママも承知しています。だから実行するかどうかはあなたが判断しなさい。その場にいなければ判断はできないし、ママは何も強制するつもりはありません。

 進めると決めたら、充分に用心して。

 ちなみに聖オリアナ教会付属図書館のあの文献の分類番号は7−23−48−90でした。後日のために記しておきます。入手の方法は自分で見つけてください。

 ともかくくれぐれも用心して。

 その一方であなたの努力の成果がどれほど神を喜ばせるものかもよく考えてください。

 この手紙の中に暗号としてミッションが忍び込まされている。そのミッションとは、沖縄嘉手納基地からベトナム、ハノイを爆撃しに行くB−52がいつ、どこを標的とするかの秘密を知らせろ、というものだ。スパイをしろ、ということだ。

 フリーダ=ジェインの仕事は空軍の会議で決定した爆撃内容をメモし、正式文書にして関係将校に配布することだ。だから情報には絶えず接している。問題はそれをどう持ち出し、どうベトナム側に伝えるかだ。

 ママの手紙にある電話番号(もちろんそのままは書いていない)に電話することを決意する。相手は安南さんというベトナム人である。その一方で、B−52の機長であるパトリック・ビーハン大尉と知り合い、交際が始まる。インポであることを知らずに。

 嘉手苅朝栄(かでかる ちょーえー)は、満13歳の時、沖縄からサイパンへ昭和11年に渡る。両親と兄とでサイパンで暮らすも、景気はだんだんと悪くなってしまう。ついに兄にも「赤紙」が来て出征。昭和19年になると両親は沖縄行きの船に乗ったけど潜水艦により撃沈されて亡くなってしまう。そのころのサイパンはアメリカ軍の空襲はあるわ、艦砲射撃を食うわでとうとうアメリカ軍が侵攻して地上戦となると、もう地獄となった。地獄に行ったことはないけれど。

 朝栄のその後は意外なものだ。

 サイパンではみんな死にました。誰もがばたばたと死んでゆくのを何の感慨もなく見ておりました。その二十日間ほどの間にあらゆる姿の死体を見たと思います。

 私自身はといえば、山の中を逃げ回って、最後に飢えと渇きと疲労で昏倒していたところをアメリカ兵に拾われました。教えられたとおり潔く自決しなかったのは、どうせ死ぬのだからわざわざ自分から死ぬことはないと思ったからでした。あるいは、日本人であるというのは私にとっては三枚の看板のうちの一枚にすぎないと考えたからでした。

 さて昏倒してアメリカ兵につかまった私は、ススペに作られた収容所に入れられました。かつて働いた製糖工場から遠くないところでした。

 そこに1年半ほどおりました。収容所の中は食べるものも充分にあって、働けば給料も支払われて、開戦後の地獄はいうまでもなく開戦の前の不景気だったサイパンと比べると、まるで天国のような暮らしでありました。これでは日本がアメリカに勝てるはずがなかったと思い、それならばさっさと負けを認めればみんな死なずに済んだのにと思いました。

 この収容所で朝栄は安南さんとばったり出会う。安南さんは父の泡盛醸造所にタイの米を納入してくれていた琉南洋行のサイパン支店長(たった一人しかいない支店だけど)だった。広い収容所でこのたった1回きりの再会であった。

つづく

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